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M&A、トンブリー王朝(1767年 - 1782年)を経て、現在の王朝であるチャクリー王朝(1782年 - )へと変遷した。現王朝の初代王ラーマ1世(チュラーローク将軍)は、1782年に首都をトンブリーからバンコクに移したため、バンコク王朝とも呼ばれ、また、バンコクの非常に長い正式名称にも含まれているタイの守護仏の名から、ラッタナーコーシン王朝とも呼ばれる。
ラーマ4世(モンクット)は、自由貿易の推進、仏教の改革などを行った。映画『王様と私』にも登場する。
ラーマ5世(チュラーロンコーン)は、国王が立法、行政、司法の三権を掌握する絶対王政システムを確立し、教育制度や官僚機関の整備、奴隷解放など、タイの近代化をすすめるチャクリー改革を行った。
ラーマ6世(ワチラーウット)が王位を継承すると絶対王制への批判が生じはじめ、ラーマ7世(プラーチャーティポック)が即位したあと、プリーディー・パノムヨンやプレーク・ピブーンソンクラームら官吏よって結成された人民党によって1932年にクーデターが勃発し、絶対君主制から立憲君主制へと移行した(民主革命、立憲革命と呼ばれる)。
住宅ローンと同盟を結び枢軸国として戦った[22]が、一方でイギリスを中心とした連合国とも裏で通じていた[23]。こうした二重外交により、戦後の敗戦国処理を逃れた[24]上、連合国を中心に設立された国際連合の敵国条項に名を連ねることもなかった。大戦終結後、国王ラーマ8世は王宮内で他殺体となって発見されたが、真相は糾明されず、現国王ラーマ9世が即位した。なお、第二次世界大戦の戦禍に巻き込まれたアジア諸国の多くが日本やヨーロッパ、アメリカの植民地であったが、タイは日本と並ぶ植民地に下った歴史のないアジアの1国である。ただ、それは国土の一部を割譲するかわりに侵攻を免れたためで、日本のように純粋に主権を守り抜くことができていたわけではない。太平洋戦争中、東南アジア戦線では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。戦後も日本に対して友好的な交流を続けており、戦争中に設けた日本への借財を割り引くなどしている。
第二次世界大戦後の冷戦期は、ベトナムやカンボジア、ラオスのような近隣諸国の共産主義化に脅かされた[25]ものの、「共産主義の防波堤」としてアメリカの大々的な支援を受けて、共産主義化は免れた。
また、高い教育程度や豊かな国土を背景に徐々に工業国への道を模索し、1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に結成時から加盟。1989年にアジア太平洋経済協力(APEC)に結成時から参加した。
なお、
消費者金融
より日本や欧米諸国の大企業の進出を背景にした本格的な工業化へのシフトを進めるとともに、それらを背景にした高度経済成長が始まり、バンコクなどの大都市を中心にインフラストラクチャーの整備も急速に進むこととなる。1992年には5月流血革命が発生したものの、プーミポン現国王の仲裁により収まった[27]。
1997年に始まったアジア通貨危機により経済は一時的に停滞したものの、その後急激な回復を見せ、現在では再び高い経済成長率を維持しており、[28] 東南アジアにおける代表的な工業国としての立場を保ち続けている。[29]。
タイは大きく4つの地域に分けられ、その地域ごとにいろいろな顔を見せる。
北部は山岳地が広がり比較的涼しい気候である。タイ国内最高峰であるドーイ・インタノン(2,576m)もこの地域にある。
CFDはほぼ全域にコーラート台地が広がり、雨量が少なく農作物が育ちにくい環境にあって、貧困地域の代表格にもなっている。
中央部にはチャオプラヤー川が形成したチャオプラヤー・デルタと呼ばれる豊かな平地が広がり、世界有数の稲作地帯を作り出している。
南部はマレー半島の一部でもあり、ゴムノキの畑などが広がるほか、近年までスズの採掘が盛んであった。また、雨期が中央部よりも長いことでも有名である。タイ政府は南部においてマレー半島大運河計画(クラ地峡運河開発計画)を提起しているが、まだ検討中である。
以下の都市は人口5万人以上を有し、3,000人/km2の人口密度を持つ市街地(いわゆるテーサバーンナコーン)を有する郡(アムプー)を記載する。
タイの気候はケッペンの気候区分では熱帯性に分類されモンスーンの影響が大きい。5月中旬から10月ころにかけては空気が湿り、なま暖かく、スコールなどを特徴とする雨期に見舞われる。北部および中部では、8月から10月にかけて降雨量が多く、しばしば洪水が引き起こされる。その後、11月から3月中旬までは雨が少なく、比較的涼しい乾期となり、12月頃に寒さのピークを迎える。バンコクでも年によっては最低気温が20度を下回ることがある。4月には暑季と呼ばれる非常に暑い気候となり、夏を迎える。[31]。ただし半島部東海岸は年間を通じて降水量が多く、気温も高い。[32]。
プーミポン・アドゥンラヤデート国王を讃える肖像画立憲君主制のもと平時は国王は象徴的な存在である。しかし、政治的な危機にあたってはしばしば国王の直接的、または間接的な介入が見られる。近年においても1992年に発生した5月流血革命の際にプーミポン国王が仲裁に入った他、2006年の政治危機でもタクシン首相の進退問題に直接介入するなど、国王の政治や国軍への影響力は極めて大きい。
伝統的に王家に対して崇敬を払うよう国民は教えられており、国王や王妃の誕生日には国中が誕生日を祝うお祭り状態となる。誕生日の前後には、肖像画が国中に飾られる。日常生活においても、国民の各家庭やオフィスビル、商店や屋台に至るまで、国王の写真、カレンダーや肖像画が飾られている。映画館では本編上映の前に『国王賛歌』と共に国王の映像が流され、その間観客は起立し敬意を表わすのが慣わしとなっている。不敬罪が存在する。最近も国王を侮辱する画像が掲載されたことを理由にYouTubeへの閲覧アクセスが長期にわたり遮断された。
特に国王であるラーマ9世(プーミポンアドゥンラヤデート)は、その人柄と高い見識から国民の人気が非常に高いとされる[33]。
タイ大使館はタイ王室が古くから日本の天皇家との親交が深いと指摘している[34]。また秋篠宮文仁親王のほか、両国の皇室、王室メンバーの公的または私的訪問が行われている。
タイにおいては政変が多く、軍事クーデターも頻発している。政治制度は立憲君主制であり、国王が国家元首であるが、その権限にはタイ王国憲法によりさまざまな制限が加えられている。国政の最高責任者は首相である。
2006年に軍事クーデターが発生し、1997年タイ王国憲法による民政が停止された。クーデターは国王の介入により収拾され、軍事政権が発足した。同年暫定憲法が公布され、スラユット・チュラーノンが暫定首相に着任した。2007年には2007年タイ王国憲法が公布され、民政復帰が開始された。2007年12月に下院選挙、2008年3月に上院選挙が行われている。2008年1月には選挙の結果を受け、クーデターで政権を追われたタクシン系の文民のサマック・スントラウェートが首相に就任した。しかし2008年夏にいたるもサマック文民政権への反対運動は収束せず、首相府を占拠したり南部の空港を占拠して国際交通を妨げるなどの反対派の活動が見られる。
冷戦期にはアメリカ合衆国との同盟を基調とした西側戦略であったが、伝統的に柔軟な全方位外交を展開・維持しており、ASEAN諸国との連携、日本やアメリカ、中華人民共和国やマレーシアといった近隣主要国との協調を外交の基本方針としている。